農本主義者・筑波常治の講演録と対話録 ──田中英男/編著『筑波常治と食物哲学』(序文・目次明細)

田中英男/編著『筑波常治と食物哲学』の序文と目次明細をお伝えします。

衣服、眼鏡の縁、万年筆のインク、印鑑の朱筆などことごとく緑色で揃えているため「緑衣の人」といわれていた農本主義者・筑波常治の講演録と対話録。

筑波常治は、1961年に『日本人の思想―農本主義の時代』を上梓して、社会的反響を呼び起こした。以後、『米食・肉食の文明』『自然と文明の対決』『生命科学史』など多数の著作をとおして、精力的に現代文明批判を展開して2012年に逝去した。本書は、著作に未収録の「食物は世界を変える」をテーマとする4本の講演録と編著者との対話録からなる。「緑衣の人」筑波常治の「食物哲学」を平易に語り、現代人の生き方を問う。


[序にかえて]

神保町から神楽坂へ

田中英男

「食」について考えていくと、やはり何を食べるかが気にかかる。例えば、御茶の水から駿河台を下って神保町、活字の海を越えて九段へ向かうと、ここは食の大河であった。美食家たちが、大声でわめいているのだが、彼等の目あては高名な老舗であって、決してオムライスやハヤシライスではなかった。

活字の海と食の大河では比べものにならない。物書きたちは、言葉をかざって美食を誇っている。いくらたたえても腹の足しにはならない。

冷し中華を日本ではじめて食卓にのせたという店がある、それも一軒ではなく、どの店も日本ではじめてだという。最初に献立表にあげたのは、どの店であるのか判らない。

その右隣には、カツカレーを開発したのはうちの店だという看板を出している。しかし。靖国通りの向こう側も同じ看板をかかげた店がある。そのどちらも、大変美味である。だからどっちだっていいのだと思うのだが。店の側ではそうではないらしい。

我々の目あては、基本的に云えば、安い、旨い、早いの三拍子が揃っているところだ。美食家に云わせば、そんな店はこの世に存在しないと云う。たしかに矛盾しているのだが。これは一種の願望であり、夢なのであるから、そうだと認めていただきたい。

我が師・筑波常治は、この件については発言しない。何故なら、そんなところには本当の食物はないと思っているからだ。

食堂に入って、何が食べたいという前に、そのテーブルをつつむ空気がすでに食事の中身を教えてくれるのである。

ワルター・ベンヤミンが食べたものが口の中からあふり出るくらいに飽食した経験のないものは、食を語るに足らぬと云っている。また、ブリア・サヴァランは、食べすぎてはいけないと云っている。健康を害するからと…。前者は、ミケランジェロを支持しており、後者はダ・ヴィンチの態度である。

わが師は、わき目もふらずに食い、飲み、眠る、つまりわが師は、飢餓体験によって、食の考え方が出来あがったのである。

不肖の弟子は、ブリア・サヴァランに賛成しない。つまり、ミケランジェロに組するのである、何故なら、食物に対する熱意に大きな差異があるからである。

二〇一二年四月一三日金曜日、この日はわが師の命日である。

この週の月曜日は九日であった。食事の予約をするので、四月一三日か、四月九日のいずれがよいかと師に伺うと、「どっちでもいいですよ」という返事であった。場所は、神楽坂のうなぎ屋である。日時は、四月九日午後六時に決定。これが師との最後の夕餉となった。献立がうなぎであったことも泣けてくる。

このうなぎ屋は、先生とはじめて会食したところで、桜が散り葉桜となった頃であった。師は この時三三歳。弟子は二〇歳。献立はやはりうなぎであった。

師は、この時法政大学の教師、たぶん助教授であったろう。弟子は、日本文学科の学生であった。

神保町と神楽坂は、こんな風に特別のものがあった。もちろん、人形町でも銀座でもいいのだが、活字の海と食の大河を渡るようなところがよいと、わが師は云っている。

二〇一七年九月九日


■目次■

序にかえて ―神保町から神楽坂へ

 

Ⅰ 食物は世界を変える 講演録

食物史へのチチエローネ

雑種について ―ハイブリット・ライス考―

味の科学と文化

食物が歴史を作る

Ⅱ 知恵の献立表 対話録

筑後の青と鎌倉の緑

チャタレー夫人VSマダム・ボーヴァリー

日本と英国

玄人と素人

グルメ時代の酒と煙草

ペルーへの旅

場末のおせち料理

新古今的

猫と犬

一冊の本

ダ・ヴィンチとミケランジェロ

彼岸花

残酷な料理方法

職人の味

歯医者の“かくし味”

注文の多いラーメン屋

古本のベル・エポック

本居宣長と良寛和尚

飢餓世代の対話

Ⅲ まずしい晩餐

京都・山科・勧修寺への道

武州・粗忽庵を哭す

変革期の思想家 ―谷川雁・丸山真男・筑波常治

ある芸術家への手紙

最後の農本主義者

Ⅳ 食後のコーラス

神保町物語

小津安二郎は世界一であるか…

「筑豊」の子守歌

映画監督・森崎東

藝術空間論

黄昏の西洋音楽

筑波常治の略歴と著作目録

エピローグ 食わんがために生きる ―飢餓の恐れ


筑波常治
(つくばひさはる)
1930年9月9日~2012年4月13日

略歴

専門は日本農業技術史、自然科学史。科学評論家としても活躍する。侯爵筑波藤麿の長男として、東京都渋谷区代々木で生まれる。1956年東北大学大学院農学研究科修士課程を修了。同年、法政大学助手(担当は生物学と科学史)。同専任講師から助教授を経て1968年に依頼退職。同年、青山学院大学女子短期大学助教授(担当は自然科学概論と科学文化史)。1970年、同校を依頼退職し、1981年までフリーランスの科学評論家として著述業に活躍する。1982年、早稲田大学政治経済学部助教。1987年、同教授。2001年に退職。衣服、眼鏡の縁、万年筆のインク、印鑑の朱肉などのことごとく緑色で揃えているため、「緑衣の人」といわれていた。自宅の住所も「緑町」であった。

主要著書『日本農業技術史』(地人書館)、『破約の時代』(講談社)、『日本人の思想―農本主義の時代』(三一新書)、『科学事始―江戸時代の新知識』(筑摩書房)、『米食・肉食の文明』(NHKブックス)、『五穀豊饒―農業史こぼれ話』(北隆館)、『日本の農業につくしたひとびと』(さ・え・ら書房)、『日本をめぐる現代の幻想』(PHP研究所)、『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)、『農業博物史』全4巻(玉川大学出版部)、『生命の科学史―その文化的側面』(旺文社)、『人類の知的遺産―ダーウイン』(講談社)、『生命科学史』(放送大学)、『日本の農書―農業はなぜ近世に発展したか』(中公新書)、『生物学史―自然と生き物の文化』(放送大学)、ほか。この他、国土社より、『筑波常治伝記物語全集』として、22冊の伝記物語を刊行。

田中英男
(たなか ひでお)

1943年福岡県大牟田市に生まれる。法政大学文学部在学中から筑波常治に師事する。著書に『損害保険業界』(教育社、1980)、『日産・日立グループ』(時事問題新書、1981)、『骸炭の街で―田中英男 詩と詩論集』(販売綱研究会、1998)、『回想の東京学生会館 1946~1966』(編著、販売網研究会、2006)、『都市の肖像画集 1953~2007』(日本保険流通学会、2008)などがある

田中英男/編著
『筑波常治と食物哲学』

四六判上製・288頁 定価=本体2200円+税

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