第5回 フィールドの地域概要 ─加藤幸治/著『復興キュレーション 』より

タイトル絵・加藤伸幸画より

東北学院大学・加藤幸治氏の著作『復興キュレーション - 語りのオーナーシップで作り伝える〝くじらまち〟 (キオクのヒキダシ2)』より、冒頭の「はじめに」をお読みいただけます。(全5回)第5回 博物館活動を通じた復興への積極的な関与(後)

第5回
フィールドの地域概要

加藤幸治
(東北学院大学)

 

本書『復興キュレーション』でとりあげるフィールドについて紹介しましょう。わたしたちが文化財レスキューを通じて関わっているのは、三陸海岸の南端に位置する宮城県の牡鹿半島の地域です。南側を表浜、北側を裏浜といいます。

世界3大漁場のひとつに数えられることもある“三陸沖”は、寒流と暖流がぶつかり合うことから豊富な海洋資源をたたえるホットスポットです。牡鹿半島は、その三陸海岸の南端に位置し、リアス式海岸を呈した複雑な地形は、多様な漁業文化をはぐくんできました。漁民の広範な技術交流、漁業資本による災害復興、漁業・養殖業の産業化、捕鯨産業の盛衰といった、牡鹿半島の海を基本とした生業の営みは、この地域の歴史や文化を知るうえで重要なテーマです。具体的には、磯根漁業、陥穽漁、底曳漁、近海での刺し網、大謀網と称する大規模定置網、養殖業、そして捕鯨と、さまざまな海の技術が主要な産業として発達してきました。

とりわけ半島の先端近くに位置する石巻市鮎川浜は、捕鯨文化で栄えた町です。江戸時代は山側に鉱山がある半農半漁の村でした。鮎川浜での捕鯨産業は、1906(明治39)年、ノルウェー式捕鯨による捕鯨が開始されて本格的に始まりました。これ以降、全国の捕鯨事業を営む企業が競って鮎川浜に進出したのですが、その背景には、「マッコウ城」と呼ばれるほどクジラが集まる金華山沖の漁場から最も近い水揚港という立地条件がありました。鯨肉と鯨油の工場のみならず、骨や髄を用いた農業用肥料やゼラチン、テニス用鯨筋ガットなど、クジラを原材料とする製品の加工には、外部から参入した企業と、地元資本によって営まれたものが混在していました。昭和三陸津波のあった昭和8(1933)年からは小型捕鯨も開始し、戦中戦後の半島の経済を支えました。そして、半島の素朴な海村は歓楽街や商店街も賑わう町に発展しました。旧牡鹿町役場や郵便局、銀行、電力会社の支店なども一揃い立ち並ぶ町は、神体島として漁民の信仰が篤い金華山へ参詣する渡船の発着場でもありました。

戦後、食料難への対策もあって、南氷洋(南極海周辺)での捕鯨が再開され、鮎川の人々は小型沿岸捕鯨と大型鯨類の遠洋捕鯨にも深くかかわっていきました。しかし1982年にIWC(国際捕鯨委員会)が商業捕鯨モラトリアムを採択、1988(昭和63)年の商業捕鯨完全禁止によって捕鯨産業は衰退していきました。こうした動きと並行して、クジラは観光産業に転換していきました。現在の鮎川では、ツチクジラの小型沿岸捕鯨と調査捕鯨による枠の範囲での捕鯨が続けられています。

(以下、本書。)


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投稿者: 社会評論社 サイト

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