篠原徹/著『民俗学断章』が2018年5月に刊行しました。序文を公開します。
四六判上製・240頁 定価=本体2300円+税
ISBN978-4-7845-1740-4
はじめに(全文)
旅に出てみたいと親にも告げずに学校を早引きして、ふらっと家出まがいに汽車に乗ったのは中学三年生の夏休み明けの九月であった。
目的地はとくだん定めていなかったが中央線のとある駅で降りて山越えに飯田線の飯田に向かったことを覚えている。これが言うなれば最初の一人旅であった。
駅から木曽川の左岸にあたる山道に入り、最初の日は読書村という変わった名前の村で泊まった。山道を歩いている時、村の若者に声をかけられ、青年たちが集まっているところに連れていかれそこで一緒に夜を過ごしたことを記憶している。
考えてみると青年たちが集まっていた家は民俗学がいうところの若者宿であったと思う。ここを取り仕切っていたのは声をかけてくれた若者でその集まりの中心人物であった。
この若者は感じのよい若い女性と仲良さそうに一緒にいた。リーダーらしいこの若者と一緒にいた若い女性は許嫁であることは、宿にいた他の若者がひやかすので自然にわかった。
しかし当の二人はなんら照れることもなく堂々としていて穏やかなものであった。夕方、山道を学校がある期間なのに一人で歩いている中学生を不審に思ったのだろうけど、そのことは決して口には出さず、どこへ行くのかと聞かれて飯田だと答えると今日は無理だから泊まっていけと言って連れていかれたのが若者宿だったというわけである。
次の日の朝、ご飯を食べさせてもらって道を教えてもらい餞別までもらって大平峠を越えて飯田に向かった。見送ってくれたのはこの若者と許嫁の女性であったがすがすがしい感じであった。
これから二日間はお堂とか小屋に野宿して飯田に出た。飯田からもっていたお金と餞別のお金で汽車で豊橋まで行き、東海道の御油にあった母の実家に行って一泊した。
伯父と伯母はびっくりしていたが、とくだん詰問されることもなく次の日名古屋の自分の家に帰った。伯父は家には電話を入れていたようだ。
そのときは父も母も何も言わなかったが数年経った高校の頃、もう一日帰ってこなかったら捜索願いを出そうと思っていたと父が笑いながら言ったのを記憶している。何事にも寛容で怒ることのなかった父親であった。
この一人旅を現在の地図で自分の辿った行程を確かめようとしたが、思い出せなかった。
どの駅で降りたのかも定かではないが、読書村と大平峠の名称だけは鮮明に覚えているので、与川峠から大平峠にでて飯田峠を越えて飯田市に入ったようだ。そうだとすれば読書村に近い駅は現在では南木曾駅ということになる。
知らない土地に一人でふらっと行くことは初めてのことであったが、それがおもしろいものだということがわかった。
何がおもしろくて、何が分かったのかということは分からなかったが、他所の土地の自然や他所の人びとの生活を訪ね歩くことを職業にするようになったことと私の深い意識の中でつながっているにちがいない。
民俗学という学問は大学や研究機関で一人前の専門分野として認められるようになってきたのは最近のことである。
私は幸運にも民俗学を標榜して研究機関の中で生きていくことができた。職業として民俗学者を名乗りあちこち調査をしてきた。しかしこれは他者を知るために旅をしてきたのであって、どうやら中学生の折の家出まがいの旅の延長にすぎなかったのかもしれない。
言うなれば旅の人生であったことを回想的に振り返ってみて肯定しようが否定しようが、こうでしかありえなかったとしか言い様がない。
一応民俗学を標榜した旅の人生であったが、その折々に考えてきたことや感じたことを一つのつながりとしてみるのではなく断章として綴ってみたい思っていた。この本のタイトルを『民俗学断章』と名付けた由縁である。
1章から5章までの文章は最近書いたものもあれば以前書いてどこにも発表せずに眠っていたものに手を加えたものもある。
民俗学という学問分野に正統と異端あるいは本流と傍流というものがあるとは思えないが、しかしあるという人もいる。
その意味で言えば私などは明らかに異端で傍流ということになる。私にとってはそんなことはどうでもいいことなのだが、傍流で異端と言っておいた方がいかにも民俗学らしくておもしろいと思う。
本書は異端の民俗学者の現在の民俗学批判として読んでいただきたいと思っている。
1章 民俗学的現在と歴史性
2章 旅と故郷
3章 民俗語彙という不思議なもの
4章 民俗自然誌という方法
5章 文学と民俗学
引揚者二世のルーツに始まり、民俗学者として五十年余りの間をアジア、アフリカ、日本国内の小さな山村に滞在して集めた人と動植物の民俗をいま改めて考える。半生をかけた学術的蓄積を自ら再構成して見出すのは、現在の日本民俗学の抱える学問的問題点である。
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