書評掲載●川村湊「〝フクシマの祈り〟を ─広い視野から「原発文学」を見る」(黒古一夫著『原発文学史・論』社会評論社刊)『週刊読書人』2018年7月20日付掲載。
〈フクシマ〉から七年。原発という存在の危機。「文学の役割」を、現代の文学者たちはどのように意識し、表現(創作)活動に関わってきたか。福島原発事故以前の作品から事故後の作品までを論じ、その想像力の射程を「通史」として見渡す。
目 次
序章 核時代を生き抜くためには
〈1〉フクシマから七年
〈2〉ポピュリズム(大衆迎合主義)の果てに
〈3〉「科学神話」信奉者が何をもたらしたか?
〈4〉吉本・村上発言と「原発文学」
第一部 フクシマ以前
第一章 「核と人類は共存できない」 大江健三郎の「反核」思想
〈1〉その軌跡
〈2〉描き出された近未来図─『治療塔』・『治療塔惑星』と「反核」
〈3〉『定義集』へ
〈4〉『定義集』から『晩年様式集』へ
第二章 井上光晴の挑戦 『手の家』・『地の群れ』から『輸送』まで
〈1〉「被爆者差別」を問う
〈2〉『プルトニウムの秋』
〈3〉『西海原子力発電所』
〈4〉『輸送』
第三章 被爆者たちの「反原発」 ヒロシマ・ナガサキと原発
〈1〉「原子力の平和利用」とヒロシマ・ナガサキ
〈2〉栗原貞子の「先駆性」
〈3〉林京子─「八月九日の語り部」の「反(脱)原発」
第四章 ルポルタージュ文学・他の収穫 『日本の原発地帯』・『原発ジプシー』・『原発死』・『闇に消される原発被曝者』、等々
〈1〉高度経済成長と「安全神話」─『日本の原発地帯』(鎌田慧)・『蘇鉄のある風景』(竹本賢三)・『故郷』(水上勉)
〈2〉最初の衝撃─『原発ジプシー』・『原子炉被曝日記』
〈3〉『闇に消される原発被曝者』
第五章 「安全神話」への挑戦 高村薫・東野圭吾・高嶋哲夫の試み
〈1〉「安全神話」
〈2〉可能性としての「原発小説」─『神の火』(高村薫)と『天空の蜂』(東野圭吾)
〈3〉「原発テロ」の恐怖─『スピカ─原発占拠』(高嶋哲夫)
第二部 フクシマ以後
第六章 声を上げる 『それでも三月は、また』・『いまこそ私は原発に反対します。』
〈1〉最初の試み─川上弘美、多和田葉子、他
〈2〉「原発に反対する」とは?─その1
〈3〉「原発に反対する」とは?─その2
第七章 池澤夏樹の挑戦 「核」存在との対峙
〈1〉東日本大震災・フクシマ
〈2〉「希望」は持ち続けることに意味がある─『双頭の船』論
〈3〉独特な「核」認識
〈4〉『アトミック・ボックス』
第八章 「No more HUKUSHIMAS !」 津島佑子『ヤマネコ・ドーム』他の試み
〈1〉「人間としての倫理」
〈2〉戦後史を「影絵」として─『ヤマネコ・ドーム』論
〈3〉少数者との共生─『ジャッカ・ドフニ─海の記憶の物語』
第九章 閉ざされた「未来」 『バラカ』(桐野夏生)・『岩場の上から』(黒川創)・『亡国記』(北野慶)・『あるいは修羅の十億年』(古川日出男)
〈1〉フクシマ後の世界
〈2〉『バラカ』
〈3〉『岩場の上から』─ディストピア小説としても
〈4〉日本消滅─『亡国記』の世界
第一〇章 被曝地にて、被曝地から 玄侑宗久『光の山』と『竹林精舎』、そして志賀泉『無情の神が舞い降りる』
〈1〉被災地(被曝地)で
〈2〉 「逃げ出さない」思想
終章 乱反射する言葉 フクシマと対峙する様々な言葉
〈1〉「ポップ」であることの意味─『恋する原発』(高橋源一郎)
〈2〉「一〇〇〇年」後の恐怖─『ベッドサイド・マーダーケース』(佐藤友哉)
〈3〉反「日本」の彼方へ─『重力の帝国』(山口泉)
〈4〉歌の力・詩の力─『震災歌集』(長谷川櫂)・和合亮一『詩の礫』他・若松丈太郎『福島核被災棄民』他
〈5〉「被曝労働」・「原発ホワイトアウト」・「記録」・「原発棄民」
「序章 核の時代を生き抜くためには」より
二〇一一年三月一一日の東日本大震災にともなって起こった福島第一原子力発電所の大事故─以後、原発を抱える現代世界にアポリア(難問)として存在することになったという意味で「フクシマ」とカタカナ書きする─から七年、IAEA(国際原子力機関)が「レベル7」と認定したこの原発のシビア・アクシデントに対して、この国の現代文学の書き手たちは、どのように対応してきたのか。
この問いは、かつて大江健三郎が「文学の役割は─人間が歴史的な生きものである以上、当然に─過去と未来をふくみこんだ同時代と、そこに生きる人間のモデルをつくり出すことです」(「戦後文学から新しい文化の理論を通過して」八六年)と言った意味での「文学の役割」を、現代の文学者たちはフクシマ以後どのように意識し、表現(創作)活動に関わってきたか、ということの謂いでもある。
…… そのようなことを考えて、私はフクシマ以前に書かれた原発小説やフクシマ後に陸続と発表された原発文学を、その内容に沿って文学史的な観点から検討する必要があるのではないか、と思っている。それは、文学の役割が「生き方のモデルを提出すること」(大江健三郎)であり、文学者には「炭鉱のカナリア」と同じ役割があると考える者の責務なのではないか、と思うからである。つまり、これまでに書かれた原発文学は真に「核と人間は共存できない」という世界像を実現するものになっているか、ということでもある。第一章の「大江健三郎の『反核』思想」から終章の「乱反射する『言葉』─フクシマに抗する様々な表現』まで、原発に関する表現(作品)をできるだけ多く集め、「第一部 フクシマ以前」─井上光晴の『西海原子力発電所』(八六年)や水上勉の『故郷』(九七年)、東野圭吾の『天空の蜂』(九五年)、堀江邦夫の『原発ジプシー』(七九年)、等々を論じた─と、「第二部 フクシマ以後」─多和田葉子の『献灯使』(二〇一四年)をはじめ、津島佑子の『ヤマネコ・ドーム』(二〇一六年)や池澤夏樹の『アトミック・ボックス』(二〇一四年)、玄侑宗久の『光の山』(二〇一三年)、北野慶の『亡国記』(二〇一五年)、桐野夏生の『バラカ』(二〇一六年)、黒川創の『岩場の上から』(二〇一七年)、若松丈太郎の『福島被災棄民』(二〇一二年)、などを対象とした─に別けて通史的に論じたいと思ったのも、これまでにこのような「原発文学史」も、またまとまった「原発文学論」もなかったからである。
著者略歴
黒古一夫(くろこ・かずお)
1945年12月 群馬県安中市生まれ。
1969年3月 群馬大学教育学部卒業。
1982年3月 法政大学大学院(日本文学専攻)博士課程満期退学。
2011年3月 筑波大学図書館情報メディア研究科教授定年退職。
現在、文芸評論家・筑波大学名誉教授。
著書(「核」関連の著書は「あとがき」に記す)
『北村透谷論─天空への渇望』(1979年 冬樹社)
『小熊秀雄論─たたかう詩人』(1982年 土曜美術社)
『祝祭と修羅─全共闘文学論』(1985年 彩流社)
『大江健三郎論─森の思想と生き方の原理』(1989年 同)
『三浦綾子論─「愛」と「生きる」ことの意味』(1994年 小学館)
『小田実─「タダの人」の思想と文学』(2002年 勉誠出版)
『作家はこのようにして生まれ、大きくなった─大江健三郎伝説』(2003年 河出書房新社)
『灰谷健次郎─その「文学」と「優しさ」の陥穽』(2004年 同)
『村上龍─「危機」に抗する想像力』(2009年 勉誠出版)
『辻井喬論─修羅を生きる』(2011年 論創社)
『井伏鱒二と戦争─『花の街』から『黒い雨』まで』(2014年 彩流社)
『立松和平の文学』(2016年 アーツアンドクラフツ)他
原発文学史・論
〈絶望的な「核(原発)」状況に抗して〉
黒古 一夫
A5判ソフトカバー297頁 定価=本体2700円+税
ISBN978-4-7845-1920-0
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