10月に入りましたが暑さが続いております。読書の秋にはまだ早いのか…。こちらの写真は、演歌師・添田唖蝉坊と添田知道の記念碑がある浅草弁天山で写したもので、ちょうどトンボが案内板にとまっていました。
浅草寺の片隅に…
関東三大弁天の一つ、浅草弁天堂の周りにいくつかの石碑があります。その一つが添田唖蝉坊碑と添田知道筆塚。親子にして演歌師二代の祈念碑があるここ浅草は演芸の街。
「東京節」(添田知道)より
東京で繁華な浅草は
雷門、仲見世、浅草寺
鳩ポッポ豆うるお婆さん
活動、十二階、花屋敷 すし、おこし、
牛(ぎゅう)、天ぷら
なんだとこん畜生でお巡りさん
スリに乞食にカッパラヒ ラメチャンタラギッチョンチョンデ
パイノパイノパイ
パリコトパナナデ
フライフライフライ
木馬館と添田知道
弁天山から浅草寺のにぎわいを通りまして寄席、木馬亭へ。こちらで先日10月2日の夕方、カンカラ三線を奏でる演歌師・岡大介さんの独演会「浅草木馬亭独演会2016」が開かれておりました。添田唖蝉坊・知道演歌はもちろん、明治時代をさかのぼり「トンヤレ節」「オッペケぺー節」も披露。無伴奏で唄われた当時の演歌を再現。オリジナル作品もまた味わい深く、観客の踊りも最後には飛び出すほど。歌声が会場に響き渡っておりました。ゲストに高田漣さんが出演。父・高田渡との思い出をユーモラスに語りながら「コーヒーブルース」「系図」などを披露され、岡大介さんと「生活の柄」を共演。
(写真は後日撮影しました。)
木馬亭(1階)の入り口は木馬館(2階)と並んでいます。かつて木馬亭の場所にメリーゴーランド(木馬!)があったのだそうです(詳しくは奥山おまいりまち商店街のページをご覧下さい)。木馬亭の前にいらした案内役の方にうかがったところ、その方も子ども時分に遊んだそうです。入り口横には当時を再現する木馬が展示されています。
1980年に添田知道が亡くなった当時、野沢あぐむ氏による『月刊歌謡曲史研究 臨時増加 追悼号 添田知道 演歌の世界』が発行されています。添田知道の演歌師、文士としての業績をふりかえる内容です。その中で「浅草の会」昭和28年11月18日付の写真として、添田知道と長尾吟月のふたりが実際に木馬に乗って笑顔を見せるの写真が掲載されていました。『演歌の明治ン大正テキヤ』ではこの追悼号の見出しを列記して紹介しています。
浅草と空襲
その浅草にも、空襲の惨事が起きています。案内人の方によると、木馬亭は焼かれずにすんだそうです。当時あった「ひょうたん池」のおかげだったとのお話でした。1945年3月10日の東京大空襲の記録から、浅草の様子を引きます。
浅草地区の中南部は浅草公園や雷門を中心とした地域で、花川戸、芝崎町、田島町、松清町、北松山町、雷門、北仲町などがある。北に言問い通りが走り南は駒形通りに囲まれた地域である。花川戸、雷門、田原町、北仲町の人びとは浅草国民学校に逃げることになっていた。学校は強制疎開のために三方が空地になっており、関東大震災の体験をもつ人びとは上野の山よりも近くて安全だと考えていた。そして迷わずここへ逃げた人は助かった。田原国民学校(田原町一-一八)も焼け残ったが、ここは兵隊が駐屯していたので都民は逃げ込むことはできなかった。雷門から浅草寺に逃げ込んだ人は苦しい目にあった。五重の塔、観音堂、仁王門などは火がつくとアッという間に火吹雪が飛んで焼け落ちた。(『東京大空襲・戦災誌 都民の空襲体験記録集』第1巻 東京空襲を記録する会/刊、1973年)より
浅草に育ち、長きにわたりこの東京大空襲の記憶を語り継いできた戦争体験者のお一人、永六輔さんがことし7月に亡くなりました。室員もまた永さんのラジオを聴くのが大好きでした。戦争の悲惨さについて、考え及ばない暮らしをしていますが、世界に目を向ければ空襲は現実に起こっています。まぎぞえになった人の数が伝わってきますが、ひとり一人に名前と生活があるはずです。
戦争体験を語り継ぐ記録を残すべく社会評論社でも関連図書を発行しています。室田元美さんのルポルタージュ「猛火に包まれた帝都、その終焉。」(『東京府のマボロシ』所収)もそのひとつですが、こちらはまた改めてご案内できればと思います。
永六輔さんをはじめ、浅草に縁のある人の本や歴史の記録を数多く集めた場所「浅草文庫」が、浅草寺から少し歩いた台東区立中央図書館にあります。『演歌の明治ン大正テキヤ』にも資料をご提供いただきました。
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