演歌師・添田唖蝉坊(1872-1944)の作品のなかでもユニークなフレーズ「トコトットット」で世相を描写したヒット作「ラッパ節(喇叭節)」の歌詞に誘われてみました。
1 | 「喇叭節」(ラッパ節)登場 |
私しやよつぽどあはてもの 蟇口拾つて喜んで
につこと笑ふてよく見たら 馬車にひかれたひきがへる
(おやっ!? 道ばたにあるのはお財布(がま口)さんじゃありませんか! よいしょ。と、おやおやよく見たら、馬車にぺしゃんこになってるカエルじゃないか! ひええ・・・)
「喇叭節」は明治37年、1904年にできました。この年は、2月に日露戦争が始まっています。それまで好戦的な歌詞も作っていた添田唖蝉坊ですが、「喇叭節」が転機になって、庶民の息づかいが判るようなユニークなフレーズを加えて庶民の日常を歌い上げてゆきます。それは奇しくも戦争が起きた時代でした。
倒れし戦友抱き起し耳に口あて名を呼べば
ニツコリ笑ふて目に涙 萬歳唱ふも胸の内トコトツトヽヽ
「喇叭節」のフレーズ「トコトットット(トコトツトヽヽ)」は、明治の東京市中を走っていた鉄道馬車が出していたラッパの音だといいます。
レールの上を走る鉄道馬車の時代は、明治時代にまでさかのぼります。先日の記事は須田町交差点周辺を歩いて「東京市電(都電)」にふれましたが、鉄道馬車はそれよりも古いのです。今では馬車というと厳かなイメージがしますが、庶民の交通機関として活躍していた時代があったのです。
東京市中の交通機関としてハイカラな乗合馬車が走るための工事は、鉄道馬車よりも早くから始まっています。人と馬車との道を分ける「馬車道」ですが、応急工事であったことから、悪評高く「カマボコ道路」と新聞が揶揄する話もあります。
そして明治15年の6月から鉄道馬車の時代が「喇叭節」の生まれる頃までの20年のあいだ続くのです。
2 | 馬の博物館 |
こちらの写真は横浜にある「馬の博物館」(公益財団法人馬事文化財団)の入り口です。人と馬とのかかわりについて子どもから大人まで楽しめる展示がいくつも作られており、季節展もまじえて楽しめる所です。
「馬車」は幕末に横浜の外国人居留地にもたらされます。その「馬車」が庶民の目に映るのは、明治初めに横浜と東京の居留地間を結んだ乗合馬車の営業のころからのようです。
次は、乗合馬車が東京市中を走り出していた頃の話。
明治11年9月の新聞で、「新橋駅」の前に集まる小型乗合馬車のようすをこう伝えています。「馬のようで馬ではない。鹿でも牛でもない。骨は見え、皮やぶれ肉が見える。気息奄々として今にも死にそうだ」。見るに忍びない馬の様子です。
馬車業者によって老いた馬を酷使する者があったため、馬を虐待しているとして社会問題になったようです。
馬の博物館には、農家の厩(うまや)で馬が家族の一員として大切に養われている展示場があります。日本でそれまでなじみのなかった「馬車」が交通機関の馬力として活躍する話をきくと、近代化というのは動物にまで影響を与えていることが判ります。
3 | 日比谷公園の水飲み場 |
東京馬車鉄道会社が国から鉄道馬車営業の認可を受けた明治13年の暮れから15年6月下旬にかけて開業工事が始まります。
記録によると、鉄道馬車の路線は甲、乙、丙の3路線があって、「新橋ステーション前」から「浅草雷門」を結ぶ交通機関でした。乗り降りが自由な反面、脱線もよくあってお客まで手を貸してレールに戻していたこともあったといいますが、新しい乗り物として活躍し、最盛期には300輛の車両と、馬2000頭を持ったといいます。
明治29年に若くして亡くなる樋口一葉が、貧しい暮らしの中で兄に会いに鉄道馬車に乗ったことが日記に書いてあるそうです。
今も都心の中枢に広がる憩いの場所、日比谷公園は「洋風近代式公園」として明治36年に開園しています。そこに「馬の水飲み」が建っています。馬車をひく馬のためにこの水飲みを利用していたのかもしれません。農家の厩で馬をいたわるように、馬力にたよる人たちのねぎらいの場であったのでしょう。
交通機関とはいえ、馬車をひく馬が馬糞をしたり、砂ぼこりで舞う当時の東京市中。とても今とは様子が違っていたようです。「喇叭節」のように、カエルもぴょこぴょこ跳ねていたのでしょうし、運悪くペシャンコになっていたのでしょう。
4 | 円太郎馬車 |
正岡容の小説「円太郎馬車」(昭和17年)には、文明開化の東京に「見るからに急進国の素晴らしさを誇るやうな馬のいなゝき、轍の響き」でやってくる乗合馬車の光景が描かれています。
プープープププー。ことのとき喇叭の響きは一層近づいてきて、ハイカラな乗合馬車がお客様を巨体へ一杯鈴鳴りにして走ってきた。スコッチ服の馭者がキチンと馭者台へ坐つて時々思ひ出したやうに片手の喇叭を吹鳴らしながら、往来を横切らうとする老人などに、
「お婆さん。オイ危いよ」
と声高に叱りつけた。いかにも文明であり、開化であつた。
演歌の明治ン 大正テキヤ
フレーズ名人・添田唖蝉坊作品と社会
社会評論社編集部/編
添田唖蝉坊/詞
中村敦・白鳥博康・吉﨑雅規・厚香苗・和田崇/寄稿
定価=本体1800円+税 ISBN978-4-7845-1917-0
参考文献
- 都市紀要33 東京馬車鉄道(東京都刊)
- 平成17年度 交通博物館鉄道の日記念講演会 神田~交通博物館ゆかりの地より~記録集
- 東京のうた その心をもとめて(朝日新聞社編、刊)
- 開港150周年記念 横浜 歴史と文化(横浜開港資料館編、有隣堂)
- 文明開化に馬券は舞う 日本競馬の誕生(立川健治著、世織書房)
- 明治生まれのストリート・シンガー二代(中村敦、『演歌の明治ン大正テキヤ』所収、社会評論社)
- 正岡容集覧 仮面社
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