リレーコラム(5)
瀧田 寧、西島 佑、瀬上和典、羽成拓史
西 島 『機械翻訳と未来社会―言語の壁はなくなるのか』のリレーコラムも最終回となりました。今回は、瀧田、西島、羽成、瀬上の4人でお届けいたします。早速ですが瀧田先生、発売から三か月以上経ちましたが、あらためて本書の特徴はどこにあるとお考えでしょうか?
瀧 田 そうですね。本書の構成ではいくつか工夫をしましたが、自分が直接手を加えたところでいうと、執筆者による座談を二か所に設けている点ですかね。こうすることで、硬い調子で書かれた「学術論文」を読むことに高い壁を感じる方々にも、本書の内容になじんでいただけるのではないか、と期待しました。実際、インターネットでの反応や雑誌で引用されている箇所をみると、座談の発言が取り上げられているので、編者としては嬉しく思っています。そこでこのリレーコラムの最終回も、座談形式でお届けしようと考えました。
さて、各章執筆者の皆さんのところには、どのような反応が届いているでしょうか?
西 島 この三か月で一番反応があったのは、瀬上論文ではないでしょうか?
瀧 田 そうかもしれませんね。ただ、瀬上さんの〔座談二〕のCATに関する発言については、わたしも読者の反応を拾うなかで、ちょっと補足したほうがよいのではないか、と感じたところがあります。202頁上段の「厳密には~」で始まる箇所ですが、CATとか機械翻訳とかを、瀬上さんがあの座談でどのようなものとして言及しているのか、少し詳しく説明していただけますか?
瀬 上 まず、CATは一般的にはいわゆる翻訳支援ソフトウェアですが、「厳密には」と述べている箇所でわたしが念頭においているものは言葉の定義通りのものです。そもそもCATとは、Computer AssistedまたはAided Translationの略なので、その言葉上の意味は「機械の助けを借りた翻訳」というものです。
「機械を使う翻訳」という意味でいえば、コンピュータで用いる電子辞書、実務者が用いるCATツール、翻訳サイトや翻訳アプリ(Google翻訳やVoiceTraなど)を使う翻訳も含むという認識です。こうした「機械の使用を前提とした翻訳」=「機械翻訳」が広がっていくのではないかと考えています。
ここで一つ補足なのですが、一般に「機械翻訳=Google翻訳のような全自動翻訳」、「CAT=専門家のための翻訳支援ツール」という認識があるようですが、設定や操作次第ではCATも翻訳サイトのように指定した範囲を全自動翻訳することができますし、それが売りにもなっています。そして、どちらもポストエディティングを行うことが前提であるのも変わりません。
瀧 田 ありがとうございました。では次に、西島さんにうかがいましょうか。これまでの反応はいかがですか? リレーコラムに対するものを含めてでもいいですが。
西 島 わたしのほうでは、評価するような声もきこえています。翻訳家や通訳者としての生き残りを考える上でも、機械翻訳に極端に肯定的になったり批判的になったりするよりも、むしろ「人間にしかできない翻訳とはなにか」みたいなことを考えていくほうが長い目でみても有効なのではないかという声をききます。逆に反応が悪いのは、本書に「オススメの機械翻訳」みたいなことを期待していたような方々ですかね。「オススメ」の機械翻訳を紹介するような本ではないですね(笑)。
瀧 田 たしかに。ところで、西島さんの前回のリレーコラム(第三章)を読んでいてちょっと気になったので、〔座談一〕でのやり取りと重なるところがありますが、あらためて確認させてください。結局西島さんの主張では、「英語が強い状況」は今後も続くが、機械翻訳の登場によってその存在が潜在化するために、「学ぶ価値のある言語」としては、英語が今ほど多くの人々に意識されなくなる、ということでよろしいのでしょうか?
西 島 そうです。
瀧 田 その状態で機械翻訳への依存を続けるとどのような問題が生じるか、ということを、第三章の最後で論じているのですね。
西 島 はい。表向きには、みんな「機械翻訳をつかえばいいや」となり意識されなくなるかと思いますが、水面下では英語、まあ将来的にはそうとは限りませんけど、ともかく世界を支配する言語が残りつづけると予想されます。この予想に対して、なにを問題と考えるのか、たとえば英語のように世界を支配する言語を学ばなくなることを問題とするのか、あるいはそうした言語が残りつづけることを問題とするのか、といったことは人によって異なるのでしょうが、第三章でわたしが強調したかったのは、そうした言語が水面下に沈むことで、何らかの言語に支配されている世界の現実がみえにくくなる、ということです。
瀧 田 わかりました。ありがとうございました。それでは羽成さん、いかがでしょうか?
羽 成 そうですね。全体的にはポジティブな反応が多いように思います。本書をお渡しした方から、機械翻訳という理系分野を中心に研究されているものを、文系的視点から議論したことに対して意義がある、という嬉しい意見もいただきました。本書が、様々な視点から機械翻訳とこれからの社会との関わりを考えるきっかけになれていると実感できたような気がしています。
また、本書を参考文献として、機械翻訳にポライトネスを反映させる手法を考察した研究が本書発売から二か月ほどで発表されているのをみつけたのは嬉しい驚きでした。その研究は主に理系的視点から行われたものでしたが、本書が分野の垣根を超えて様々な議論や研究に資することができているのは大変喜ばしいです。そのような議論や研究で得られた知見から、言語と、わたしたちの生きる社会との関わりをよりよく知ることができるのではないかと期待しています。
瀧 田 ありがとうございました。では最後に、本書のきっかけを作ってくれた西島さんに締めてもらいましょう。よろしくお願いします。
西 島 「人工知能」は、一つの「知能」でもあります。AIの登場によって、人間が部分的には人間を超える知能をもった存在と遭遇したことになります。人工知能、本書の場合は機械翻訳ですが、AIを問うことは、そのまま人間や言語を問うことにつながっていきます。たとえば「どうやったら人工知能は言語を扱えるようになるのか」といった問いは、そのまま「それでは人間はどうやっているのか?」という問いと無関係ではありません。
こうした問い自体は学術的なものといってよいかと思いますが、そこから生まれる議論は派生的に、AIの社会浸透によって影響をこうむる人たちにも示唆を与えられるはずです。ぜひとも、研究者の方、学生の方、一般の方を問わずに本書をお手に取っていただけると幸いです。
投稿者: 社会評論社 サイト
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