先史・野生の諸問題を通して現在この地球上に生きて存在する意味を問う。
*はしがき(全文)
石塚正英
はしがき
二〇二〇年の春先、新型コロナウイルスの感染が全世界的に広がった。二月に準備していた済州島でのフィールド調査は中止となった。いわゆるパンデミックの発生である。最初は中国の武漢で感染者が現れた。二〇一九年末、なぜ武漢がウイルスに襲われたのか、原因は定かでない。けれども、感染はその後翌年に入ってアジア各地に拡大し、感染経路が明らかではない患者が日増しに増え、二〇二一年八月末現在で日本国内の死者は一万六千人、世界大では四四二五万人を超えた。
パンデミックによって、世界各国の住民は生命にかかわる環境異変を共有することとなった。世界中の人々が大規模な集会・イベントを自粛し、屋内にあっては窓を開けて換気に気を配り、互いに接近せずマスクをつけている。その光景は東京で、パリで、ロンドンで、そしてニューヨークで同時に見られたのである。二〇一一年三月の福島原発事故に際しても、似たような危機意識は生まれたが、その意識は、放射線漏洩の現場から遠ざかれば和らいだ。けれども、人とモノと情報が地球上を移動してやまないグローバリズムの今日、ウイルスはその動きに乗って世界中にいわばくまなく蔓延していったのである。
その事態を目の当たりにして、人々は、この地球上に生きて存在していることの意味を否応なく実感させられた。そう、人は、なによりもまず〔存在する〕ことの確認において人として認めあってきたのである。その際、〔存在(be, being)〕とは、地球上、すなわち自然環境と社会環境の只中に内在していることを指す。あるいは、人と自然が互いに存在を認め合う関係を指す。それを象徴的に表現すると、〔人(one-self)と自然(another-self)のbe動詞連合〕となる。私は、かつて拙著『ソキエタスの方へ』(社会評論社、一九九九年、一一二頁)ですでに、地球上に自然に生まれた人々すべて、あるいは日本列島に存在する者すべての基本的人権要求として、次のように書いていた。
我々「日本人」は、とりあえずはGHQから草案のかたちでほんの一時だけ提示された英文の日本国憲法を持っている。これを読むと勇気がわいてくる。なぜかというと、そこには、国民国家から切り離された「自由」が記されているからなのである。提示されたあとすぐさま消しさられてしまった条文なのだが、そこには確かに「国家」とか「国民」とかの文字はないのである。問題の条文を以下に示そう。
Article 13. All natural persons are equal before the law.
マッカーサー草案とも称されるこのGHQ草案をもとに日本国憲法第一四条(正式なものとなった時、第一三条から一番だけずれた)ができたが、その条文は「すべての国民は、法の下に平等であって……」となった。どこかがおかしい。この日本語条文を再度英文にもどしたものを以下に示そう。
All of the people are equal under the law…
GHQ草案とどこが違うかというと、All natural personsが All of the people と変更され、beforeがunder に変更されたということである。
以上の引用文は、国家に所属する存在でなく、自然に生きる存在にかかわる。また、「世界人権宣言」(一九四八年一二月一〇日、国連総会で採択)の第七条に次の文が読まれる。「すべての人は、法の下において平等である(All are equal before the law)」。この”before”は重要である。しかし、その重要性は、「法の前」と訳さないともみ消される。なぜ「法の下」と異訳されてしまったのであろうか。
かつて、農本主義思想家の権藤成卿(一八六八~一九三七年)は「社稷」という術語を大切にした。「社稷」とは、共同契約、「非地方分権」(中央集権の下位としての地方分権に非ず、の意味)としての自治、国家権力に抗する〈公共性〉を特徴としている。生存権は国家に保障されるのでなく国家権力に対抗する社稷アソシエーションが自治的に保障する。この発想は、これまで意味あるものとして称揚されてきた「参加型民主主義」を超えるもので、いわば「存在型民主主義」である。「参加」と言う場合、すでにして参加していく対象が他者によって用意されている。投票日が近づくと、政府や地方自治体が参政権を行使して政治に参加するよう呼びかける。そこには市民(世界市民・地球市民)はいない。国民としての市民がいるだけである。参加型民主主義のアポリアは、民主主義のパラドクスとして周知のところである。
今後は、参加する(権利としての)民主主義でなく存在する(生存としての)民主主義に還ろうではないか。「存在型民主主義」は還る対象であって、新たに創出する対象ではない。それはすでに日本国憲法草案(マッカーサー草案)に記されてあったのだ。ただし、草案の段階で削除されてしまったのだった。私としては、現行第一四条の条文「すべての国民は法の下に平等であって(云々)All of the people are equal under the law..」を、以下に示すGHQ草案に差し替えて、この条文の文字通りの再生を「地球市民憲法」として求めるものである。
Article 13. All natural persons are equal before the law.「すべての自然人(地球市民)は法の(あるなしの)前に平等である」。
以上の議論を私なりに象徴的に表現すると〔歴史知の百学連環〕となる。自然と人間、世界と地域、過去と現在、それらは相互に連環し、諸学は相互に連環している。それは歴史知を形成する。それは身体知を形成する。前近代に起因する知(経験知・感性知)と現代に特徴的な知(科学知・理性知)を時間軸上で連合する知を探究する。感性知と理性知を両極にして相互に往復運動をする、両者あいまって成立する知的パラダイムである。これこそが人類史の二一世紀的未来を切り拓く知、〔歴史知〕なのだ。本書は、そのような問題意識をもって叙述されている。書名にある「オントロギー」は〔存在(be, being)〕を言い表わしている。
なお、ここで強調する〔存在〕は、能動的あるいは他動詞的なあり様「我こそは」でなく、受動的あるいは自動詞的なあり様「おのずから」である。それはときに反転するが、行為のみならず、主体・本質それ自体が外発的な働きを感受して反転するのだ。価値転倒である。ギリシア的な「ペリアゴーゲー」(向け変え)とは違う。こちらは主体・本質は不変なのだから。〔歴史知〕はペリアゴーゲーの世界をひっくり返す。
はしがき
第一章
先史社会を現代人はどう見たか
トインビー・ヤスパース・フレイザー
はじめに
一 アーノルド・ジョゼフ・トインビー
二 カール・テオドール・ヤスパース
三 ジェームズ・ジョージ・フレイザー
むすびに
第二章
先史文化を現代人はどう見たか
デュルケム・マリノフスキー・ラドクリフ= ブラウン
はじめに
一 自然崇拝(儀礼)と文明宗教(礼拝)
二 類型と進化︱母系と父系
三 氏族と家族
むすびに
第三章
リグ・ヴェーダの歴史知的討究
プレ・インダスの提唱
はじめに
一 プレ・インダス文化と後継アーリア文化の継承関係
二 リグ・ヴェーダの先史・自然的特徴
三 リグ・ヴェーダの文明的特徴
むすびに
第四章
身体内共生儀礼としての食人習俗
はじめに
一 モガリと小野小町
二 事例紹介
三 分析・考察
むすびに
第五章
カラル遺跡(ペルー)十字形像の先史性
はじめに
一 先史からのタイムカプセル
二 カラル遺跡の遺物
三 先史の十字形像
むすびに
第六章
シンボルによる価値転倒
十字形像を事例に
はじめに
一 原像(具象)とシンボル(抽象)
二 十字形像とその諸類型
三 ハマンの磔刑とイエスの磔刑
四 原像(具象)が模写(抽象)に続く不自然
むすびに
第七章
キリスト教神話のドラマトゥルギー
グノーシス的解釈とフェティシズム的解釈
はじめに
一 神を霊的に知解する人間(GnostischeWeltグノーシス世界)
二 知識を食べるプラトンの魂(Ideenweltイデア世界)
三 キリスト(霊)を生きるパウロ(肉)(Geisterwelt聖霊世界)
四 キリストを食べる「最後の晩餐」(Herkunftswelt起原世界)
五 キリスト教神話のドラマトゥルギー
六 『ユダの福音書』にみる〔他我〕=もう一人の私
むすびに
第八章
〔父が子を生む(マタイ福音書)〕表現の歴史知的考察
はじめに
一 「マタイによる福音書」一章二節の検証
二 母方オジは父ではない
三 父が子を産む呪術「擬娩」
むすびに
第九章
ゲシュレヒターポリス(氏族遺制都市)とアヴンクラート(母方オジ権)
はじめに
一 カナン人とイスラエル人―農耕と遊牧
二 氏族(先史)と都市(文明)—〔氏族都市〕という形容矛盾
三 血縁(自然)と擬制(文化)―「父」という架空概念をめぐって
四 契約の箱(形像)と内容(事象)―ラバンの小像
むすびに
第十章
汎神論と物神論
ブルーノ・スピノザ・フォイエルバッハ
はじめに
一 フェティシズムとアニミズム
二 地中海神話に読まれるmater
三 神々の形像そのもの崇拝/四 儀礼と呪術
五 ジョルダーノ・ブルーノとベネディクトゥス・デ・スピノザ
六 フォイエルバッハの他我論
むすびに
第十一章
感性文化と美の文化
バウムガルテン・ヘーゲル・フレイザー
はじめに
一 文化の二類型―ドローメノンとドラマ
二 美醜の感性︱バウムガルテン『美学』から
三 原型的自然と模型的自然︱カントの批判哲学から
四 自然美は人間精神の反映 ―ヘーゲル『美学講義』から
五 自然はもう一人の私―フレイザー『金枝篇』から
むすびに
第十二章
未然形の純粋経験と連用形の歴史知
西田幾多郎小論
はじめに
一 端緒より出でて端緒に回帰する未然形
二 〔自然の法nomosphysikos 〕との連携
三 主客合一の端緒なく〔我・汝〕交互する連用形
むすびに
第十三章
先史と文明を仲介する前方後円墳の儀礼文化
はじめに
一 儀礼文化としての前方後円墳
二 技術(工人)は王権に従属せず
三 先史のキョウダイと文明の夫婦
四 玉と金/五 夷守と夷君
六 〔北陸汀線・信濃川遡上系〕の事例
むすびに
第十四章
母系制と姫彦制の関係
高群逸枝『母系制の研究』に鑑みて
はじめに
一 母系制における母権と母方オジ権
二 高群逸枝『母系制の研究』に「母方オジ」を読み取る
三 母系と父系の相互関係
むすびに
第十五章
安藤昌益の自然観と社会観
災害と飢饉の江戸中後期を現在として生きつつ
はじめに
一 安藤昌益とその時代
二 自然観―自然と社会
三 社会観―文明と社会
四 アクチュアリティー
むすびに
第十六章
陶淵明の「心在」は「死してなお自然 とともにある」を意味する
はじめに
一 もう一人の私〔形と影・分身〕
二 よき人間 ・悪しき人間 〔帰園田居〕
三 婉曲的な体制批判〔擬古・無政府桃花源〕
四 交互運動の交点たる〔三種の人境〕
五 死生観〔生と死は対立・矛盾でなく連繋的〕
六 玄学思想
むすびに
第十七章
思想としての二・二六昭和維新
三島由紀夫『憂国』をまじえて
はじめに―歴史の断絶と連続
一 あらたに発見された富岡定俊保管資料について
二 証言集『二・二六事件と郷土兵』について
三 思想としての二・二六昭和維新
四 三島由紀夫の〔憂国〕
むすびに―郷土という時空における生活と文化
あとがき
初出一覧
索 引
石塚正英 著(いしづか まさひで) 東京電機大学名誉教授。NPO法人頸城野郷土資料室(新潟県知事認証)理事長。著作『石塚正英著作選【社会思想史の窓】』全6巻『革命職人ヴァイトリング―コミューンからアソシエーションへ』『地域文化の沃土 頸城野往還』『マルクスの「フェティシズム・ノート」を読む―偉大なる、聖なる人間の発見』ほか多数
2021年10月20日刊行予定
歴史知のオントロギー 文明を支える原初性
石塚正英/著
定価=本体3400円+税 ISBN978-4-7845-1881-4 A5判上製424頁
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